軍艦島は、その閉鎖的な環境と特殊な産業構造から、日本の他の地域とは異なる独自の生活様式が発展した。明治時代から昭和にかけて、日本の近代化とともに、軍艦島の生活様式も大きく変化する。
軍艦島の歴史は、1890年、三菱による買収と海底炭鉱の開発から始まる。初期の労働者は、ほとんどが大納屋(タコ部屋)と呼ばれる共同生活を送っていた。一部の世帯持ちは、瓦屋根の平屋の木造棟割長屋に住むことができたが、プライバシーは限られていた。生活は、炭鉱という仕事を中心に回り、共同体意識が非常に強かった時代だった。
大正時代に入ると、日本初の鉄筋コンクリート集合住宅である30号棟が建設された。これは、同潤会アパートよりも早く、日本の近代集合住宅の先駆けと言えるものだ。続いて「日給社宅」などの大型集合住宅が建設され、多くの労働者がアパート暮らしを始めた。これらの集合住宅は、当時の最新技術を駆使して建てられ、上下水道や電気などのインフラも整備された。住民たちは、狭いながらも近代的な住環境を手に入れることができた。
戦時中は、軍需産業として石炭生産が重要視され、軍艦島は国家の統制下に置かれた。生活物資は配給制となり、食料や燃料は不足した。住民たちは、厳しい生活環境の中で、助け合いながら戦時を乗り越えた。
戦後、日本は復興と高度成長を遂げ、軍艦島も活気を取り戻した。石炭産業は再び活況となり、島の人口は増加した。生活水準も向上し、家電製品が普及し始めた。特に、海底水道の完成は、島民の生活を大きく変えた。水洗トイレや水道設備が整備され、水不足の悩みから解放された。洗濯機などの家電製品の普及により、家事は大幅に楽になった。一方で、高度成長による生活の多様化は、かつての強い共同体意識を徐々に薄めていくことにもなった。
1960年代には、軍艦島は最盛期を迎え、人口密度は非常に高くなった。住民たちは、限られた空間を有効活用しながら、豊かな生活を送っていた。しかし、エネルギー革命の進展とともに石炭産業は衰退し、1974年、ついに閉山を迎えた。住民たちは島を離れ、軍艦島は無人島となった。
軍艦島の生活様式は、日本の近代化とともに大きく変化した。当初は炭鉱という厳しい労働環境の中で、共同生活を送りながら、限られた資源を分け合って生活していた。高度経済成長期には、生活水準が向上し、家電製品や水道などのインフラが整備され生活は豊かになった。しかし、閉山とともに、島民たちは故郷を離れ、軍艦島は無人島となった。軍艦島の歴史は、私たちに多くのことを教えてくれる。それは、資源の有限性、環境問題の重要性、そして共同体意識の大切さだ。軍艦島は、近代日本の光と影を映し出す、貴重な遺産と言えるだろう。