現在では端島へ上陸見学できるいくつかの観光遊覧船が運行されている。船は1962年に造られたドルフィン桟橋へ接岸するが、いつもかならず上陸できるとは限らない。時化で海が荒れたときなどは船が大きく揺れ、接岸できなくなるためだ。外洋に突き出した小さな端島は波のうねりや潮の流れの影響を直接受ける。人が居住していた当時から、船の着岸や荷揚げは困難な作業であった。
しかしそれよりも深刻だったのは、島を襲う高潮や台風である。大きな台風のたびに護岸は破壊され、竪坑は浸水し、木造建造物は倒壊した。端島はもともと人が居住するのに適した島ではなく、海中炭鉱である岩礁を最先端の技術で人が住めるように改造しつづけて形成された人工島だ。ゆえにこれらの海の脅威と隣り合わせであることは、はじめから運命付けられていたともいえる。
端島のメインストリート「端島銀座」には、海が荒れると護岸から舞い上がった海水が降りそそぐ「潮降り町」と呼ばれる一画があった。降りそそぐくらいならまだいい方で、台風のときには島内に洪水のように海水が浸入したという。波しぶきは7階建てアパートの屋上に避難した住民が見上げるほどの高さにまで達した。
そして護岸が崩壊したとき、端島は最悪な状態に陥ってしまう。護岸の積み石は激流に乗って島内に侵入し、木造建造物や他の護岸を破壊していった。1956年8月に台風9号が襲来したときの様子は伊藤千行氏の写真に鮮明に記録されており、その深刻な被害を今に伝える。
倒壊した木造建造物の跡地では、次の台風には耐えうるよう鉄筋コンクリート造(RC造)で再建された。新しいRC造高層アパートは海に背を向けるように建てられ、防潮壁の役割も果たした。端島の西側に要塞のようにRC造高層アパートが立ちこめているのは、こうした建て替えや再建が繰り返された結果である。
はじめは人口密度を高めるために開発されたRC造高層アパートだったが、それは海の脅威から島を守る役割をも果たすようになった。アパートの各住戸も風通しや日照よりも、防潮や防水を優先して設計された。とはいえ常に潮風と波しぶきにさらされている状況では、鉄筋コンクリートの寿命は短くなってしまう。まして無人化後はなおさらで、遺構保存の観点からは、この崩壊と浸食をいかに食い止めるかが大きな課題となっている。